もうこれ以上走れない、そう少女は思った。
踏み出す足は華奢な素足で、一歩ごとに泥や土、雑草と小石にまみれる。まばらな木々の合間から、ときおり乾いた銃声が響く。それが自分には当たらないと分かっていても、少女は恐怖と圧迫感で嘔吐しそうになった。
時は夜。暗闇は木々の間を縫うように広がっていて、少女の特殊暗視能力を持ってしても、果てなき深淵のごとく広がっているようにしか見えない。自分のGPS能力を信じることが出来ないのはこれが初めてだった。方角がこちらで合っているのか、このまま走り続けてもいつしか元の研究所に戻ってしまうのではないかと思うと、恐怖に足が竦んだ。
(被験体A2−2501が逃走。監視システム稼働率19%、応援を頼む)
(指令センターが破壊されている。北北西のゲートに人員を集中させろ)
頭の奥から、傍受した電波通信が鳴り響く。いくら両手で耳を塞いでも、奔流のように流入して少女の頭蓋を揺さぶる。
少女は脱走者だった。
試験管の中で生まれ、研究所の窓から外を眺めて育った少女に、“その日”は唐突に訪れた。いつもの注射を腕に打つ赴いた医務室で、にこにこ愛想笑いを浮かべる医師のいつもの顔を見た瞬間、なぜだかそいつを殺して逃げるのが自然だと思えたのだ。
低く伸びた枝が衣服を引っ掻き、黒い石がすべらかな足の裏を傷つけても、少女の逃走は止まらなかった。華奢な肢体はしかし、どんな俊速の猛禽でさえ追いつくことはできず、どんな凄腕のスナイパーでも捉えることはできない速度と躍動に満ちていた。
ただ戦闘のためだけに生まれ、敵を殺し任務を遂行するためだけに訓練を重ねなければならない運命が憎かった。そんな自分に、戯れに『心』などという愚昧なものを吹き込んだ研究者も、同じほどに憎かった。
少女に自らの娘の姿を重ね合わせた担当研究者であるライコスが、少女の思考リミッターを一部解除、学習プログラムに本来ないはずの情操教育モードを組み込んだのだ。
それが『愛』と呼ぶべきものなのかどうか、少女には分からなかった。自分がこれからどうなってしまうのかも分からなかった。それを知ることは怖かった。
名前が欲しかった。存在理由が欲しかった。
本能と欲望のおもむくまま、少女は暗く暗い闇夜を走り続けた――
――次に気がついたとき、少女は揺れる貨物乗用車の荷台の上に座っていた。あたりは褐色の岩とハイウェイ、それからどこまでも突き抜けるような青空。
ここは、どこだろう。わたしは、どうなったんだろう。
自分の手足を見回すと、研究所を抜け出した時の格好のままだった。手足は泥にまみれ、衣服はところどころ破けて風にはためいている。いくつもあった擦過傷は、持ち前の生体治癒により全て塞がっていた。それでも、流れ出した血まで元に戻るわけではない。
「おっ、気がついたかい?」
運転席でハンドルを握る男が、目だけを背後に向けて声を発した。いかにも実直そうな、田舎じみた男だった。ひょっとしたらまだ少年と呼んでもいいくらいの年かもしれない。
「いやァ、このまま起きないんじゃないかと思って心配したよ。この先に検問があってさ、君みたいなのを乗せてたら検問官に何言われるか分かったモンじゃないんだから。ようやく手に入れたパスにいきなりレッドチェックがついたりなんかしたら、田舎の兄弟に笑われるよ。そいつを取るのに、何年かかったと思ってるんだ! とかって」
男はそばかすの浮いた鼻の頭を掻いて笑った。
「…………」
「あ、ゴメン、喋りすぎた! その、いきなりでびっくりしたろ? そういえば、名前も聞いてなかったのにね。参ったなあ。悪いトコなんだ、僕の。相手の話も聞かないでずっと喋っちゃうの。いつも言われてるんだけどな。特にナターシャなんか、『あなた分かってやってるんでしょ』とかって、いっつも尻を蹴ってくるんだ。この間なんか勢いでカイバの束に頭から突っ込んじゃってさ、一日中臭いが取れなかったよ。いやあアレは参った――あ」そこまで一気に喋って、男は今さら気がついたように言葉を止めた。「ゴメン――またやっちゃった」
少女は男の顔をしばらくポカンと眺めていたが、やがておかしそうに顔をクシャッと歪めた。
「あ、笑った」男も面相を崩した。そうすると、ますます少年めいた顔になる。「良かった。なんとか言葉は通じるみたいだね」
ハイウェイを疾走する貨物乗用車を運転しながら、男はバックミラー越しに少女に話しかけた。
「僕、アッシュ。この先のマクレイシティーまで、恋人のナターシャの《
成人の儀
》に使う儀礼用具を買いに行くんだ。ま、大人の仲間入りするための、最後の使いっ走りってトコかな。君は?」
それが自分に向けられた問いかけであることに気づき、少女は黙った。
こんなケースに対応する
行動
は教えられていなかった。こんな時どうすればいいか、研究所では知らされずに育ってきた。
「……ん、ゴメン。話したくないならいいや」アッシュと名乗った男は、勝手に誤解してくれたようだった。「ずっと走ってたらさ、道端に女の子が倒れてるんだから、そりゃあ誰だってびっくりするよ。放っといたら確実に
野犬
の餌だし、かといって他に手も思いつかなくてさ。そんで、まあ、乗せたんだけど……」
そこまで言って、アッシュはわずかに頬を染めた。
「で……できればさ、着替えてくんない? そんなカッコでいたら、いろいろと誤解されそうだから」
頬を朱色に染めて視線を逸らすアッシュに、少女は不思議そうな視線を返した。
マクレイシティーは砂漠に囲まれたオアシス都市だ。古代から栄えてきた都市の城壁や遺跡を跨いで、高層ビル群や路線が縦横に走っている。人口もカルクシア大陸で第六の規模を誇る、砂上の交通都市である。
アッシュに借りただぶだぶのシャツに腕を通し、街を興味津々と見つめる少女に、アッシュは苦笑を漏らした。
「都会がそんなに珍しい? おかしなコだなあ。まるで初めて外の世界を見た子供みたいだ。まあ、僕も滅多にここには来ることないんだけどね――」
確かに、アッシュの乗用車のような
古色
蒼然
とした代物は、都会のここらではかなりの希少種のようだ。
少女は車窓から眺める風景に、ほうと息をつく。
さまざまな人がいた。荷車を引きながらキセルで煙草を吸う男、母親に手を引かれてはしゃぐ少年と少女、風変わりなターバンに身を包んだ男は、これまで少女が見たこともないほど浅黒い肌をしている。道行く人に気さくに声をかける
流浪商人
たち。軍服に身を包んだ一団は思い詰めた顔で通り過ぎ、目だけを残して顔を布で覆った女は視線ばかりが鋭い。研究所にいたような、色白で神経質そうな白衣の男も時折見かける。
「いいトコだよ、実際。うちの田舎ではなかなか買えないようなモノも沢山あるし。最近は物価高騰やテロでちょっと物騒でもあるけど……」
そうしている間にも貨物乗用車は走り、ある高層
百貨店
の前まで差し掛かったところで、交差点を曲がって広いアスファルトの駐車場に入った。タイヤが軋み、ずっと鳴り続けていたエンジン音が止まる。
ふう、やっと着いた、とアッシュは独白した。
「それじゃあ、僕はここで買い出しに行ってくるから。君はここで待ってて。すぐ戻るから。別についてきてもいいけど――」
そこでアッシュは少女を眺め、おかしそうに笑った。
「その様子だと、間違いなく迷子になりそうだからね」
なにか言わなければならないのだろうと思いながら、少女は返事をすることができなかった。あの研究所を抜け出してから、戸惑うことばかりだ。
「それじゃ行ってくるよ、オノボリさん。君に似合いの素敵な服も買ってきてあげる。センスは保証できないけどね」
そう言って青年は手を振り立ち去った。
なにか言わなければならない。なにか――とても大事なことを。遠くなっていく青年の背中を見つめながら、少女は必死に言葉を探した。喉を何度も震わせ、思考を形にしようとした。今言わなければ、そのチャンスは二度と訪れないかもしれない。そんな漠然とした焦燥感だけが、少女の胸をかき乱した。それでも、なぜそう思うのか、何がそうさせるのかは、少女には分からなかった。
少女には、 その機能がついていなかった。
と。
耳慣れない声が飛び込んだ。
(――装置のセットは完了したか?)
少女の頭蓋に埋め込まれた、通信傍受デバイスからだ。近くで誰かが、軍用波長で通信をしている。声に覚えはない。
(あと2分だ。特大の花火が各階ごと、計16発、これで最後)
(早くしろ。我々の計画に破綻は許されないのだぞ)
少女は混乱した。通信の内容が理解できない。ただ、3重の暗号化を示す傍受ノイズの強さが、その危険さを表していた。剣呑極まる通信らしい。
自分で何をしているかも分からないまま、少女は耳を
峙
てる。
(ついに悲願の時が来たな。興奮してきたよ。古代の英雄たちの仲間になった気分だ)
(黙って作業を続行しろ。その油断が、常に
梟雄
を滅ぼしてきた)
悲願? 作業? 何を言っているのだろうか。
少女は息をのむ。
(我らが赤き星に栄光あれ、と。よし、これで爆弾の設置は完了だ)
(了解した。今から10分後、9時00分ちょうどに作戦を決行する。所定の持ち場に戻れ)
(了解)
まさか誰かに聞かれているとは夢にも思っていないのであろう、男たちの会話は淡々と続き、そして途切れた。
――爆弾。その言葉が、少女の思考にゆっくり浸透していく。爆弾。作戦の決行。発信元は――目の前のビル。
少女はその建造物を見上げた。たちまち逆光が目を灼き、少女はその薄い
瞼
を細める。
通信の意味するところに、心当たりがひとつあった。それは田舎の祭儀などより、よほど少女に近しいモノだった。
――この頃はテロなんかでちょっと物騒なんだけどね――
見上げる摩天楼は途方もなく高く、陽光に
煌
めく硝子
窓は遠慮もなく少女の目を刺す。その目に涙を流す機能は備わっていなかったから、少女はただ、その建物を睨み返すことしかできなかった。
――アッシュ。
少女の唇が、その言葉を紡いだとき、先程までの形にならぬ言葉が、漠然とはっきりしなかった胸のざわめきが、突然ひとつの形を持った。もやもやと
蟠
る何かが、いきなり凝縮して頭の中で姿を得たように思えた。
もはや迷いはなかった。
少女は駆け出した。足下のアスファルトが砕けるほどの勢いで走りながら、生まれて初めて、自分から脳内の制御リミッターを解除した。
青年に借りたシャツが風を受けて膨らむ。
まるで一陣の
颶風
だった。
脆弱な自動式
硝子
ドアも、制服姿の警備員も、彼女を止める役には立たなかった。弾丸の速度で走る少女が両手を一振りしただけで、葦か簾
のように硝子はあっけなく破砕され、警備員は吹き飛ばされて昏倒した。驚き顔の買い物客や店員たちは、彼女の姿はおろか、疾風と衝撃波さえも見ることができなかっただろう。
研究所で受けた学習プログラムが、彼女の背中を後押しした。一度も経験したことがなくとも、彼女はカウンターテロに関する知識を完全網羅しているのだ。自らが作り出した空気の壁の中で、少女はぐんぐん加速していく。
受信機の電波発信元を逆トレースし、敵の居所を突き止める。爆弾の反応は、信管を使った遠隔爆破式。ならば、設置場所を探知できる。
――見つけた。
少女は客のひとりに突進した。一件普通の通行人にしか見えない男はしかし、巧みに耳朶に備え付けられていた極小の通信装置を作動させたままでいた。それが命取りになった。
男が気づいた瞬間、すでに少女は男の両腕を掴んでいた。少女が無造作に腕を振ると、男の体が宙に浮いた。
死の空中飛翔は男の両肩の骨が砕けてもなお止まらず、商品棚を薙ぎ倒しながら壁に激突。逆向きに壁に貼り付いたまま、男は肉と血の塊と化した。おそらく自分に何が起こったか、認識する間もなかっただろう。
少女はあたりを検索し、婦人用健康食品の棚に隠された爆弾を探しだし素手で取り外すと、その形状を確認。過去の情報から検索して、型番と特徴を読み込む。着火装置を外せば外部操作ですぐには爆発しない型と判明したので、金属壁を指で突き破り信管装置を
抉
り出し、外の硝子に向かって投げた。透明な破片を撒き散らしながら、爆弾は外へと落ちていく。
少女はまさに
澎湃
と逆巻く一筋の颶風。階段をわずか一歩で駆け上がり、次々とテロリストたちを屠
っていく。4人目を窓から落としたところで、敵と民間人は事態に気づいたようだった。恐慌と混乱が起こり、我先にと人々が逃げまどう。それでも、少女には関係なかった。テロリスト達を全員殲滅するまでは。
アッシュを見つけて即座に脱出すればいいという考えは少女の頭にはなかった。彼女の思考には、そのような変則的な事態に対応する行動は記載されていなかったからだ。
プログラムされた本能のまま駆け抜けるうち、心はその場を離れ、いつか遠い過去を彷徨った。思い出と呼べるほど甘くなく、業と呼べるほど輪郭を持たない、遠い過去の出来事を。
――射撃訓練を続ける少女。天井のマジックミラー越しに、それを眺める表情のない研究者たち。
――自律思考リミットのための薬物調教を、最後まで反対していた担当研究官ライコスの横顔。
――迷い込んだ小犬を、力の加減ができず握りつぶして泣いた夜。
――目覚めてはまた眠る、永遠に続くと思われた繰り返しの日々たち。
それは思い出というより、少女の機体、物質そのものに染みついた映像、記憶の残滓だった。そしてそれが宇宙を覆う模倣子が作り出したものであることを、少女はついに理解することはなかった。
そして、最上階で、少女はついに再会した。
頭に銃をつきつけられ、両手を挙げた青年に。
「君は――」
アッシュの背後には、短機関銃を持った男が立っていた。少女の動きが止まる。
「こんなに早くSASが動いていたとはな。計算違いだった」
銃を持った男が、低い声でつぶやいた。耳には通信装置の存在を示す波長が検出。テロリストグループのリーダーと判断する。
「逃げろ! 君だけでも生き残るんだ!」
「そうはいかねえ」男の瞳はすでにどこか壊れているようだった。焦点が定まっていない。「まさかこんな所で王宮の特殊査問官殿がぶらぶらしてるとはね。おかげで2年越しの計画がパァだ。しかも狂犬のおまけつき」
「やめろ! 彼女は関係ない!」
「あァん? 屁に似た寝言が聞こえたな。今さら無関係もねえもんだ――おっと」
少女は一歩足を踏み出そうとしたが、足下に銃弾が着弾、行動を止めざるを得なくなる。
「動くなよ。嬢ちゃんにもこの間抜けな査問官殿にも、風通しのいい穴がしこたま開くことになるぜ」
「…………」
「おっと、おっかねえ顔だな。そんな顔も出来るのか。噂に聞いた遺伝子操作のバケモノってのは。こりゃ意外だ」
壊れた顔で、男が笑う。だがその乾いた笑いはすぐ、
瞋恚
の炎に覆い尽くされた。
「――貴様らブルジョワジーがくだらん実験に金を使い込むせいで、俺たち搾取される側は貧困にあえぎ、飢餓に苦しむ。悪循環は誰かが断ち切らねばならない。たとえ流血を伴おうともな。そして、これは貴様たちがしてきたことへの代価だ。因果応報っていう奴だよ。――じゃあな」
男が乾いた声で言い、アッシュにつきつけられた銃の引き金を無造作に引こうとしたとき。
少女が消えた。
一瞬で放たれた少女の手刀が、男の腕の肘から先を引き裂き、斬り飛ばした!
「あ?」
棒きれのような腕が宙を舞い、血の尾を曳きながら床に落ちる。跳ねず、床を転がり、腐った果実が潰れるような音がした。
男は何が起こったか理解できない顔で自らの腕にできた真っ赤な断面を見、銃を持ったまま地面に転がる腕を見、鮮血のしぶく腕をもう一度見て、絶叫した。
「――痛てええええええええええええええええええええッ!?」
アッシュは突き飛ばされ、まろぶように男から離れる。
「ああっ、糞、痛ェ、痛えッ! ちくしょう、殺す、殺す!」
喚きながら、男は残った左手で懐から何かを取り出した。スイッチ。掌に入るほどの小ささの。発信装置。
「おチビちゃん、残念なことに、て、てめェがぶっ飛ばした爆弾の他にも、民放電波に乗せる型の
遠隔
爆弾がいたる所にィ、仕掛けてあるンだよ! 天の意志だ、安っぽい正義と一緒に、く、くたばりなッ!」
男の指に力が込められる。少女はもう一度手刀を
奔
らせたが、男が自らの体を割り込ませてその一撃を阻止。肉を割り背骨を断ち切る一撃は、スイッチまでは届かなかった。
「あ゛ばよッ……!」
爆音、そして轟音。
建物が縦方向の振動を伝えると、それを合図としたように連鎖して建物のいたるところで爆発が巻き起こり、熱風と破砕音が鉄筋を吹き飛ばしていく。次々に連動して壁や天井に衝撃が走り、床が傾く。緻密に計算され設置されたのであろう爆発が各所で起こり、頑健なはずの強化骨格高層ビルを、子供の積み木細工のように崩壊させていく。
天井が崩落し、床が
傾
ぐ中、絶望にアッシュがよろけ、膝をついた。
「なんて、こと、だ」
その声に、もう力がない。生命力がない。
「僕がいながら、どうしてこんなことに……!」
全身の震えに、噛み合わない歯がカチカチ鳴った。
「ごめんよナターシャ、君の可愛いグチは、もう聞けそう、に、ない、ない」
まるで腹部を裂いて絶望が迸るのを押さえるように
蹲
るアッシュ。その瞳に絶望が広がっていく。
「死ぬのって、さ、案外、アッサリした、もんだね」
少女は青年を見下ろしていた。瞳の中にかすかな感情の動きがゆらめき、そして消えた。
次の刹那、少女は青年の胴を横様に抱え上げた。
「え?」
まるで軽い荷物を運ぶように少女はアッシュを小脇に抱え、破砕した窓枠を睨む。そして一瞬の迷いも遅滞もなく、窓の向こう、なにもない空へと向かって踏み出していく!
「う、あああああああああああああっ!?」
あっけなく二人は崩壊するビルを飛び出し、はるか眼下までなにもない空間へ身を投げ出した。重力の腕が二人を捕らえ、大地へと引きずり込んでいく。少女の髪が、青年の体が、下から吹き上げる猛風に、嵐の中の葦のようになぶられる。破片へと砕けていくビルの壁が、窓が、凄まじい速度で上へと流れていく。
少女は勢いを殺すため、ビルの壁面からわずかに突起した窓枠に素手を突き出し、
五指
を突き出し、めり込ませる。それでも二人分の体重を乗せた落下を止めることはできず、縦方向の裂傷を残して壁が引き裂かれる。限界耐久を越えた少女の指先が残らずひしゃげ、ありえない形状に折れ曲がる。生体液が飛び散り、肉が刮げる。それでも少女は手を離さない。
「やめろ! 君だけなら助かる! この手を離すんだ!」
アッシュの絶叫も、少女の耳には届かない。
手首のあたりから、泥の泡が弾けるような鈍い音を立てて手がもげた。即座に使えなくなった左手を引き、姿勢制御しながら崩壊し落下する巨大な礫岩を蹴って上向きに跳躍。さらに上から
瀑布
となって降り注ぐコンクリートの塊や鉄筋を体に受けながら、それらのすべてを蹴り、叩き、吹き飛ばして引き剥がす!
「やめろおお!」
コンクリートが見る見る巨大になっていく。巨人の鉄槌となって下方から地面が迫る!
少女は体勢を垂直方向に立て直し、両足で硬質コンクリートに着地。まるで粘土の大地に降り立ったかのように、少女の両足が膝の中ほどまで突き刺さる。衝撃で膝から下を構成する強化骨格が、縦方向にひしゃげ、伝播する力に耐えられず不自然な方向に破砕された。折れたではなく、潰れたという形容のふさわしい両足の骨が、皮膚を突き破ってその断面を晒す。それでも少女は顔色ひとつ変えなかった。
刹那の静寂。
力を使い切り、全身の骨格を極限まで酷使した少女は、抱えていた青年をそっと下ろした。
逃げまどう周囲の人々が、何事かと振り返り言葉をなくす。
「――い」言って初めて、青年は自分が息を止めていたことに気づいた。「生きてる、のか、僕は……?」
あえぐように息を吐くアッシュの横顔を見て、少女は、これまで誰も見たことのないほど安らいだ顔を見せた。まるで幼子を見守る慈母のように。腕が半ばから潰れ、両足の骨が再起不能なまでに圧搾崩壊していようと、少女の心は、これまでのどんな時、どんな場所より温かかった。
微笑。それは、何と素晴らしいものだろう?
『心』を与えられたことに、少女ははじめて感謝していた。
だが。
運命はそれを祝福しはしなかった。
二人の上に、不意に影がさす。同時に見上げると、これまでのどんな破片よりも巨大な大理石の柱が、上からの圧力に耐えられず落下してくるところだった。軽く
荷物車
ほどはある。直撃すれば、どちらの命もないだろう。
アッシュの顔が絶望に凍りつく。
巨大な影が世界を覆う。
できることはひとつしかなかった。少女は一瞬だけ逡巡し、その一瞬で覚悟を決めていた。
少女は残った右腕でアッシュの襟首を掴み、道路の向こう側へと放り投げた。残った力すべてを使っても、それで精一杯だった。自分が逃げる力は、もう残っていなかった。
青年の体が軽々と宙を舞い、放物線を描いて飛んでいく。一瞬、驚愕に目を丸くしたアッシュと視線があった。彼が自分だけ助かったことを認識し、そのために少女がとった行動を理解する頃には、すべてが終わっていることだろう。それでも構わないと、彼女は思った。
ほぼ同時に、頭部に衝撃。
それは痛みというより、振動だった。
凄まじい慣性を持って落下してくる大岩が少女の頑丈な頭蓋をあっさり潰し、続いて首から背骨を砕いていく。鎖骨から先の骨を無骨な悪魔が喰らっていく感触が、ありありと伝わってくる。
なぜか、少女の心は満たされていた。
大質量が次々と自分であったものを破砕し潰していくのを感じながら、これでいいんだ、と言う気がした。
目はもう潰れてしまっていたが、今なら涙が流せるような気がした。今ならすべてを肯定できる。
命のほむらが燃え尽きていく。
道の向こうで呆然と見守る青年の姿を感じながら、少女の体は、もとの有機蛋白物質へと還っていった。
生身だった脳細胞が圧搾され、脳神経が引きちぎられていく。
血と脳漿を飛び散らせながら、少女は最後に、言いたかった言葉が何なのかを、知った。
そして、
それを言葉にすることもできないまま、
絶命した。
「死」
「無」
「無」
「無」
「光」
死亡し絶命した少女の意識が空間が、歪み再生され脈動し落下し上昇し真っ赤に燃え上がる。時間が逆流するかのように空間が逆巻き波打ち回転し逆行し膨張し縮退し、闇に包まれた世界が空間が時間が瞼の裏が宇宙が、
そして俺はそれを見た。
「――ぅあああああああああああああああああああ!」
瞳を焼き尽くすような光の奔流が、世界を覆い、俺を押し流して――
「――ああああああッ!!」
「おっ、目が覚めたかい」
俺は跳ねた。どこだで聞いた台詞だなと、頭の隅で思いながら。
「……あ、あ」
「寝惚けてるのかあ? 相変わらず寝起きは最悪、と。ホラ、僕が分かるか? これ何本?」
白衣の男が、目の前に手を広げて見せる。
「――6本」
俺はぶっきらぼうに答えた。
「重傷だな。隔離部屋で様子を見るか」
「いま、アンタ裏でもう一本指出しただろ」
「ハッハッハ、意識がハッキリしてきたみたいだな。いやいや、ちょっとからかっただけさ。そう気を悪くするな」
どうも俺はかなり
獰悪
な目つきをしていたらしい。
「ティガの作るストーリーはいつも劇的だな。少女の自己犠牲、か。今回の夢もなかなかドラマチックだ。少々オーソドックス過ぎるのが難点だけど」
白衣の男が壁にあるディスプレイ群をおざなりに眺めながら言った。
「……もう二度と、コレはやらん」
俺は吐き捨て、自らを包む機械を指差した。
それはまるで棺だった。
滑らかな流線型の外形は、人間がすっぽり入るように設計されている。まるで一昔前に描かれていた近未来のタイムマシンのようなその人間大サナギ装置の中には、人体水と同じ濃度の生理食塩水がなみなみと注がれていて、寝たときに半分ほど体が浸かる水位に設計されている。さらに傍らから伸びるコード類の束が、俺の額、頭頂、後頭部から後ろ首にまで張り付いていた。
アイソレーションタンク。理想的な睡眠状態を人工的に作り出す装置だ。眠り心地は、まあ悪くないが。
「おいおい、そうカッカするなって。みんなやってるんだ。それに、たかが夢だ、怒るほどのものでもないじゃないか」
「……そう思うなら、アンタもやってみろ。3日で辞表を出したくなる」
俺が現在やらされていた実験は、通称《スリーピング・ビューティー・システム》。睡眠中、活性の低下した脳内に、ある外部刺激を加え、それに脳がどう反応するかを実験するものだ。つまり、どんな夢を見るかチェックする装置。半分が脳内ナノマシンの活性テスト、あとの半分は科学者どもの好奇心だろう。
俺は殺風景な部屋にずらりと並ぶ機材たちを軽く蹴ってやる。
「第一こんな実験して何の役に立つんだよ?」
「大ありさ。悲しいとき、嬉しい時なんかの心理起伏と脳内ニューロンの電位差を測定し、感情の数値化を図れば、いざお前たちの脳に任務傷害をきたすほどの過剰な圧力がかかったとき、それを脳内マシンで中和できる。個人がやろうと思ったらコッヘル州の高層ビルがひとつ買えるくらいの金がかかるぞ。生体改変にだけ許される特権だぜ」
「気味が悪いな、頭をいじくられるっていうのは」
「そう言うな。もしもの時のためさ」
だからと言って快適な休眠時間である夢で測定することはないだろう、と俺は反論したが、白衣の担当医務官はそんなことはない、脳内活性と認識抵抗が下がってる睡眠中こそ最適なのさ、と一蹴した。
「それにしてもティガの夢は面白いな。この少女とやらが生体改変だとか、部隊が東の岩砂漠地帯だっていう設定は、こちらの刺激条件にない。お前の脳が勝手に補完したんだな。あと、アッシュって名前も」
多分お前に関係の深い名前なんだろうな、と医務官は独白した。
俺は嫌な顔をしていただろう。
だからこの実験は嫌なんだ。
人の心の深層を勝手に覗き込み、科学という仮面を被って素手でかき乱す。傷口はいまだ熱を持ち、時として真っ赤な鮮血を噴き出しているというのに。
――アッシュ。その名の持つ意味。
「どうした? 気分でも悪いのか?」
「うん、悪い」
「やれやれ、そうとうショックだったみたいだな。自分で作った話なのに。――いいよ。ご苦労さん。滅菌ルームに行ったら、着替えて昼飯だ」
今日の定食は何かな――などと
呟
きながら、鼻歌まじりで医務官は去っていった。お気楽な奴だ。
俺の 眼窩には、未だに夢の残滓
がこびりついていた。目を閉じると、まるで現実のことのように蘇る。
そこで俺は空間を見下ろす傍観者であると同時に登場人物でもあった。少女の手がテロリストの肉を握りつぶすときの感触、ビルの爆破音と大地を揺さぶる衝撃、そしてアッシュの驚愕の表情までがはっきりと思い出せる。最後の瞬間をトレースすると、自分でもおかしいほどに頭の中が真っ白に燃え上がった。
なんだか無性に腹が立った。
――心の痛み、か。
感情というモノは、どこから来るのか。気分を紛らわすため、そんなことを考える。
『悲しみ』を感じる心の動きは、人間に生来備わったモノだ。生物として必要な『機能』のひとつだ。
――幼い頃から、不思議でならなかった。
なぜ俺たちには、こんな機能が備わっているのだろう。なぜ誰かの死を悼んだりするのだろう。
人間は本能的に、快楽に向かい、不安や恐怖から逃げるという本能が備わっている。そして喜怒哀楽という感情の動きは、すべからく生物としての生存本能、いかに生きるか、いかに子孫を残すか、を追求し続けてきたために生じた一種の本能――すなわち、他の生物よりも少しでも有利な立場に立とうとするための“便利な”プログラム――に過ぎない。
確かめてみれば確かに、喜びや快感を感じる行動というのは全て生物として生きていくのに必須の行動であり、恐怖は生命の危機から逃れようとする本能の
顕現
形態になっている。その証拠に愛情、性欲は、子孫を残すため、ひいてはDNAを保存するために存在する情動の代表格だし、恐怖は多く死の危険に瀕したとき、生物がそれから逃れようとして感じる忌避活動のスイッチだ。
誰かを愛し、誰かとの絆を必要とする情動も例外ではない。それは単独生活を営む爬虫類から、集団形成が常識である哺乳類へと進化するために必須のものだった。防衛本能として“知らないもの”である他者を忌避し、本能的に避けるという能力は、集団生活に不向きだったのだ。それを超克するため、他者との繋がりを求める本能――具体的には、視床下部から発せられるオキシトシンが生む快感――が生まれた。だから、ヒトは誰かを愛することができる。誰かとつながっていたいと願う。
誰かとの絆を欲し、誰かの死を悼む情動は、そういった進化過程で獲得した便利なプログラムの一種でしかない。――だから。
だから?
だから何だ。だから感情など取るに足らないものであり、利便性を追求すればそれはもう必要ないものだとでも言うつもりか。感情の神秘性など人々がでっち上げた幻影で、真に知性的な人間にとってはただの枷にしか過ぎないとでも言うつもりか。そして感情に振り回され、傷つき、時に命までも落とす人々は、石器時代の遺物に振り回される愚か者とでも言うつもりか。
そんなはずはない。
確かに俺たちは弱い。時として不条理なまでの感情の爆発に
翻弄
され、過剰な恐怖衝動に安息を蝕>まれる。それで命を落とす者も、自ら死を選ぶ者も少なくない。
それでいい。感情に振り回されてこそ人間、時として傷ついてこその心。それでいいんだ。そうやって感情に振り回されながら生きていく道しか、俺たちには選べないのだ。
俺たちは所詮、その程度の生き物でしかない。自分の頭蓋の外に出ることはできず、視覚・聴覚などから送られてきた情報を唯一の栄養として吸収し思考していくしか能のない生物だ。感情の外に脱却することはできず、頭の中にある小さな牢獄の中で、叫び、喚き、あるいは世界を知ったかのように悟り諦観し、そうして自然現象としての生を終えると、静かに有機物へと還る。それを繰り返していくことしかできない。
どんなに危険で二面性を持っていようと、俺たちは『感情』を
反古
にしてはならない。『感情』から逃げてはならない。それは同時に、『人間』から逃げることになるからだ。
だから、諦めるしかない。
だが、自らの卑小さちっぽけさに気づくこともできず、自分という小さな枠の限界を突破しようと必死にもがき抵抗する人々を、俺は時々、ひどく羨ましく思うことがある。がむしゃらに手を伸ばし、引っ掻き、全身全霊で抗おうとする時、そんな時、人はとても
毅
いからだ。
高僧のような悟りは所詮、生きていくために何の手助けもしてくれない。ただそうなんだ、そういうものなんだと静かに語りかけるだけである。アッシュとの過去に、結論を見出させてくれることもない。真理は俺たちに、何も与えてはくれない。
だからこそ真理なのか。
そこまで考えたところで、俺は思考を中断した。詮無いことだ。生きる意味も、心の正体についての思索も、つまりは単なる思考遊び。心にヒマと余裕のある奴だけがすればいい。俺はそれほどまでに人生に
真摯
ではない。
頭から思考を追い出し、目を閉じる。少女が最後に見せた笑顔が、やけにはっきり
瞼
に焼き付いていた。