第五章(だいごしょう)   逃走か逃亡か


掲載サイト:ESSENTIAL  作者:ねざ


 暗色の部屋。空気分子の隙間に入り込み充満する暗闇が、狭い室内の片隅に、天井に、床の上に漂っている。
 唯一の光源である電子画面が壁に縦横に並び、無音で舞う埃と、室内中央の男のシルエットを浮かび上がらせていた。
 男は灰色の回転椅子に深く体を預け、思索する哲人のように腕を組んで、食い入るようにいくつもの画面を睨んでいた。
 積み上げられた長方形の画面には、いくつもの画像、文字、数列情報の羅列が映し出されている。
 脳神経の伝達速度関数を表す数式と精神活性レベルを表示するいくつものグラフ。
 異国語で書かれた緑色の活字の羅列。
 生体エレクトロニクスとしての人体を解明する研究をレポートするニュース番組。
 人間の夢と思考を言語化・映像化するプログラムシステムの開発 進捗(しんちょく) 状況。
 自らの脳梁を引きちぎる男と、その精神振幅を表示した暗緑色の図表。
 ラットの遺伝子操作による神経組織改変の実験レポート。
 暗闇の中で、それらひとつひとつを眺めながら、男は孤独に笑んでいた。
「悪くない……悪くないな。誤差は確実に修正されつつある」
 その言葉は誰にも届くことはなく、ただ浮かび上がった白い埃のあわいに吸い込まれていくだけだった。
 その視線の先では、自らの肉親に刃を振り上げる赭髪の男の姿が映し出される、青ざめた画面あった。
「ツヴァイは歯車に巻き込まれて狂い、アハトは鮮やかな傷跡のみが現実と錯覚して死んだ。そして歯車は止まらず、やがてアインス、フュンフ、そして誰より、ゼクスを巻き込んで回転する。歯車はやがて彼らを血肉として進み、我らを導いていく――そう、約束の地まで」
 胸から上を暗闇に塗りつぶされた男がかすかに身じろぎし、その薄い紅色の唇を微かに綻ばせる。
「ゼヒツェーン、いや、今は亡きティエルンと呼ぶべきか。――君の言葉は正しいよ。我々はあまりに小賢しくなりすぎた。この世界に住む数十億の原始人たちは、いずれ遠からぬ未来に滅びることになるだろう。その無自覚な内部構造そのものが原因で、愚劣で、しかし強固な聖域が原因で」
 男の口許から表情が消え、なにかを思い描くようにシルエットが俯く。
「そして、ノイン、いや、堅牢なるオーギュス。我が朋友にして愚かなる審判者よ。かつて君は私よりも何倍も (つよ) かった。何倍も誇り高く、何倍も世界の暗渠(あんきょ) を見据える力を持っていた。――だが今や、君は歯車の一部に成り下がった。私の盤面の駒でしかなくなった。それは君が、見るべき目を持っていながら、同時に語るべき口を失ってしまったからに他ならない。
 私はそれを悼む。戦死したかつての君を、銀天使(アイジェンタイン)と共に朽ちた可能性の君を悼む。
 だから友よ、見ていてくれ。神も救い主もいないこの荒廃した世界に徒手空拳で立ち向かう、ひとりの 矮小(わいしょう) なる凡愚(ぼんぐ) の記憶に、少しでも癒しの水を手向けてくれ。
 祈ってくれ。私の中で、人間らしく柔らかい部分が、少しでも長く存在していられるように」
 男は (ほの)暗い声で笑った。
 青ざめた画面だけが、それを見下ろしていた。
 哄笑は重なりあい、闇に増幅され炭色の壁に跳ね返されて、やがて嗚咽(おえつ)と区別がつかなくなった。


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