「――ゎぁああああああああああああああああっ!」
乗用車
の車体が跳ねた。
全面のバンパーが固いアスファルトと熱烈なキスをする直前、俺は
操縦桿
を大きく右に切る。
車体が金切り音と共に火花を散らし、座席の俺たちを飛び上がらせる。そのまま横向きに裏返りそうになる車体を、右に体重を乗せて無理矢理に立て直させる。
「……ふう」どうにか車体が安定してきた時、俺は安堵の息を吐いた。「生きてた」
「お前の車には二度と乗らん!」
助手席でバルゲロイが叫んだ。その人差し指を高らかに俺の後頭部に向けてつきつけながら。
俺は前方を見たまま、適当に答える。
「いやだって、カーブとか面倒だし」
「ティガ、それはお前が崖から車ごとダイビングした言い訳なのか? そうなのか?」
「やれやれ、これじゃ命がいくつあっても足りないわね」
後部座席でシートベルトにしがみつくイーヴァの顔も、心なしか青ざめている。
「そう急ぎの仕事でもないし、たまには
遠乗り
もいいだろ? ここんとこ働きづめなんだし」
「ティガ、成長するいい機会だから教えといてやるけど、お前の運転は超破壊的にヘタクソだぞ」
「お客様、無賃乗車にリスクはつきものでございます。死にたくないならご自分でどうぞ」
バルゲロイは
免許証
を持っていない。場が明るくなるようにわざと軽く言ってみただけなのだが、なんだか空気が痛い。
俺たちは現在、コッヘル州郊外の軍管理ハイウェイを飛ばしている。自前のモビールは、トルク社製イクリプスZ−24型。旧式のオンボロだが、限定販売の特注品で、わざわざ大陸から取り寄せた稀少品だ。
そのゴーストシルバーの車体で騒いでいるのは、運転席の俺、助手席のバルゲロイ、後部座席のイーヴァ。
「俺が移動用ヘリにしようって言ったのを止めたのは、バルゲロイじゃないか」
罵詈雑言
に耐えかねて、俺はとりあえずの反論を口にしてみる。
「そりゃそうだがよ。正直罰ゲームだぜ、アレに乗ンのは」
バルゲロイの言葉に、俺は苦いものを飲み込んだ。
俺たちが
空挺
・
緊急出動
用に利用するフロートローターは、迅速・頑強を第一に掲げるため、ほとんど自由落下と同じような加速度で上昇するわ、俺たち部隊員を大砲の弾丸よろしく射出ポッドから高初速で打ち出すわ、ほとんど人を人とも思わない激烈な代物になっている。いくら俺たちが生体改変手術を受けているとはいえ、パチンコ玉並の速度でカタパルト射出するとは、俺たちを鉄の弾丸か何かだと勘違いしているとしか思えない。
「まあ今回みたいな時間に余裕のある任務くらい、のんびりドライブでもいいじゃないの」イーヴァが喉になにか詰まったような微笑みで何かいろんなものを誤魔化した。「カーアクションはもうお腹いっぱいだけど」
「そういえば、今回の任務って何?」
呆れた。「お前……そんなことも知らずについてきたのか?」
「いや、オレのモットーは『頭より先に体が動く男』だから」
なぜか大いばりのバルゲロイに、俺はちょっと納得した。
「バルゲロイらしいわ」
「おー。それによ、あんな事件があった後だぜ。じっとしてられる訳ねェだろうが」
「それもそうだが……」
言いながら俺はミラー越しにイーヴァの表情を盗み見た。全体としては笑顔なのだが、眉が、頬が、不自然に引きつっている。やはりカフのことが後を引いているのだろう。
俺は何か気の利いたことを言おうとしたが、あいにくうまい言葉が見つからなかった。
「あとどンくらいだ?」
「――ああ、そろそろアルゴ村が見えてくるころだから、2,3時間ってとこだよ。村を抜ければ飛行艇発着所まで一直線だから、そう心配するな」
「安全運転で頼むぜ」
「任務内容も知らないのに、ノーテンキだなあ」俺は前方を確認、見渡す限りの直線がずっと続いていたので、溜息と共に言葉を吐き出す。「うーん……いいや、ついでだから説明してやるよ」
今日の早朝、コールディール国際飛行艇発着所に、一通の脅迫文が送り届けられた。
差出人は武装組織『赤いイラクサ』の一員。テロリストグループとしては前出の犯罪歴リストにない、無名の組織だ。だが、その声明文は頭を悩ます奇怪さだった。
それは――ハイジャック予告。
「ハイジャック予告ぅ? 爆破予告とかじゃなくてか?」
「奇っ怪だろ?」
大陸南方のカレイドシティーへと発つ飛行艇、半翼コフライド335号はじめ12機の便を、武装グループのメンバーによって飛行中に制圧する。もしそのフライトの出発を見合わせても、翌日に同便を制圧する。そしてその次も。――つまり、要求を呑まない限りカレイドシティーへと飛ぶ便は永遠に飛び立てなくなるぞ、という、猛烈に性格の歪んだ脅迫だ。
たとえ脅迫がイタズラだとしても、メディアに情報が流れれば飛行艇の信用低下は否めない。半翼コフライドの経済的ダメージは絶大だろう。誰だか知らないが頭のいい連中だ。
ここ数年、こういった類の組織が極端な増加傾向にある。西方ノーラン諸島の相次ぐ政変以来、その革新思想がイーストランドにも飛び火しつつあるのだ。
それに加え人体ゲノムの医学応用、クローン製造技術の商用認可、人工知能システムの飛躍的躍進といった、猛烈すぎる技術の進歩に、人間本来の心がついていけなくなっているのも一員として挙げられる――らしい。
「で、要求は」
「年末にカレイドで開かれる、外交官サミットの無期限延期だと。典型的なソム派だが、ぜんぜんパッとしないよなあ。どうせなら旧マクレイドール王朝の復権くらい言って貰いたいもんだよ」
「で――航空会社のほうの対策は?」
「それが、特にないんだと」
「はァ?」
「こういう事件の場合、下手に騒ぎ立てない方が相手を煽り立てないで済むことが多いんだ。それに、単なるイタズラの可能性も否定できないしな。そうであってくれればいいんだが……とにかく、向こうさんとしては、目立った対応は出来ないわけだ。欠航なんかすると向こうの議員たちとまた揉めるのは目に見えてるからな、毎度外交上の配慮って奴だよ」
「はァん、それでオレたちの出番、ッつーわけか」
「その通り」
乾いたアスファルトを軋ませて、モビールは風を切っていく。時折思い出したように建っている白塗りの住宅が、現れるのと同じ速度で後方へ飛び去っていく。砂岩と低木林の向こうに、かすかに藍色をした海洋が窺える。
「そういえば
姐
さん、ここンとこ見なかったけど、何してたンだ?」
「オーギュスさんから聞いてない? 3日前まで、
禮国
のISWTに研修に行ってたの。フロントラインでの活躍は無理でも、せめて市街地戦での後方支援程度には過激なことができるようになっておかないとね、前線のあなたたちに申し訳なくて」
「ふうん。でも情報収集や装備支援なんかの中衛作業はイーヴァがダントツで部内一だろ? 生体部品の知識もあるし、今さら白兵戦闘なんて必要なのかな」
「あら、模擬戦闘で万年最下位って、けっこう悔しいのよ?」
部内の模擬戦闘ランキングで、イーヴァは8位に甘んじている。本気を出せばもっと狙えるような気もするのだが、かく言う俺も6位なのであまり偉そうなことは言えない。
「いいなァ姐さんは、プロっぽい任務があってよ。オレなんかここ2,3週間、ローカルの自警どもと違法駐車の取り締まりだぜ。生体改変兵が、白旗振って交通整理もねェってもんだ」
「お前……まだそんなことやってたのか?」
俺は呆れて訊ねた。
「まァな。自慢できる話じゃねェんだが、この前やらかしたケンカがだいぶ後引いててよ。まったく、腹芸の得意な上司を持ってオレたちゃ幸せだぜ。もうあと1月は雑用暮らし確定だ」
バルゲロイの言う“この前やらかしたケンカ”とは、偶然迷い込んだ裏路地で土着の
破落戸
たちと
諍
いになった事件のことだが、一人で68人も病院送りにする暴れっぷりは、ケンカというよりは局地テロだと思う。
さりげなく、バルゲロイの模擬戦闘ランキングは総合5位だ。俺より高い。
俺は何だか無意味に悔しくなって、風景へと目を転じる。残像を引いて流れていくハイウェイに、対向車が風を唸らせて通り過ぎていった。
乾いた風が、耳元で囁きながら後方に飛び去っていく。ダリウス都郊外のハイウェイはどこまでも同じ、岩と低木地と道路標識が永遠に続く回廊のように続いていた。
「でもよ、官憲ごっこもなかなか悪くないぜ、ハデさはねェけど。マトリの応援でアジトの一斉摘発の応援に行った時なんかよ、びょんびょん飛び回って快刀乱麻よ。連中の、オレを見る目が気持ちよかっ――」
突然、バルゲロイの言葉が止まった。不審に思って俺が横目で見ると、バックミラーを穴が開くほど凝視している。
「なあ、今すれ違った車……イゼラックの旧型じゃなかったか?」
「なんだよ、突然?」
「なあ、姐さん! 見てなかった?」
「そういえば、古いライムグリーンだったわね」
「だろ!」バルゲロイは座席から身を乗り出し、過ぎ去っていった後方のモビールを凝視した。「なあ、乗ってる奴、サングラスに
赭髪
のオヤジじゃなかったか? 右の眉の上に傷のある!」
「さあ……そういえば髪の色は赤かったような気もするが……それが何だよ? 知り合いか? ケンカ仲間か?」
「廻せティガ!」バルゲロイが大声で叫んだ。「ありゃ指名手配の“
骸商人
”リゼンタキだぜ!」
「な……何が?」
「ああっ、いいから追えよ! 早く! ホレ!」
「ちょっと待っ、俺にも事情を説明……ぉおおおあああ!?」
横からバルゲロイが
操縦桿
を無理矢理掴んで回したせいで、俺とイーヴァはほとんど何の抵抗も出来ず左壁に叩きつけられた。全身の筋肉を緊張させてなんとか
加速板
から足裏は離さないでいられたものの、暴風雨の船上のごとく車体が跳ねる。
「ムチャするなっ!」
「ムチャさせろ!」
操縦桿を握ったまま、バルゲロイが叫ぶ。暴走する俺のイクリプスZ型が車線を大きく越え、対向車が迷惑そうにクラクションを鳴らす。
壊れた玩具の暴走に俺たちの体が揺すられ、椅子から尻が浮く。大きくふくらんでUターンしたモビールが、ハイウェイ脇の防護レールと接触し火花を散らした。
「あンの腐れエッジイヤー人、こんなとこまで逃げてやがったかッ!」
「わっ、分かった、分かった、から、手を、離せッ!」
息巻くバルゲロイから操縦桿をもぎ取り、それにしがみついて俺は体を安定させた。先程からの無謀なアクロバットのせいで、タイヤが悲鳴を上げている。
「何が、何だって?」
「いいから急いで追えよ! 説明は後でするッて!」
「ええい、どうなっても知らないからな。しっかりつかまってろよ!」
「ちょっと待ってティガ、あなたまで暴走したら誰が止め……!」
イーヴァの叫びは軋るタイヤの加速音にかき消された。
で。
「バルゲロイ、お前やっぱり自警に転職したら?」
轍もない岩だらけの山肌に放置された、ライムグリーンの旧式車輌、イゼラックU型。そのボンネットに手を当て「暖けえ。まだ遠くには行ってねェな」と独り言を呟くバルゲロイを見て、俺は思わずそう漏らした。
「リゼンタキ=ウェルアルは、セイラ大漠地あたりから大陸を往復してる密輸商人なンだ」道すがら、バルゲロイはそう説明した。「密輸商人ッつってもまあ大したことない小物でな、規制銃やセッションドラッグなんかをちまちまと運んでるような、まあローカルの自警にお
誂
え向きな小悪党なンだがよ。今回は何かいいことでもあったのか、ちいっとばかし奮発してな。非合法ラボで精製されたできたてホヤホヤの反リチウム爆弾なんてモンを国内に持ち込みやがった」
「げ……」
軽く口にされたその最強爆弾の名に、俺の背が寒くなった。
高性能爆薬
を超える超反応爆薬である反リチウム爆弾があれば、小指の先ほどの量で都市がひとつ跡形もなく消え去る。軍用でさえ国際条約で厳重禁止されているその悪魔の名前が出て、平気でいられる施政者は皆無だろう。おそらく王宮の朱雀警邏官たちも血眼になって探しているはずだ。
「そんなもの持ち込んで、月でも吹き飛ばすつもりかしら」
「さあ。でも奴らには奴らの、裏には裏の繋がりがあるモンだろ。お得意先のテロリスト共に安価で提供し腐るンじゃねえのか? 想像だけど。
でまあ、そういう中央からの直々のお達しで、顔写真と特徴をメモした資料がうちの署にも配られてたンだよ。市街地であった爆発事故の時、実地検分の手伝いでオレも駆り出されててな。その時に出てきてな、たまたま覚えてた」
しかし、たまたま覚えていた手配犯を、たまたま道ですれ違っただけでそれと気づくとは、大した記憶力と刑事根性だ。
転職しても間違いなくうまくやっていけるだろう。転職できればの話だが。
「こっからは自分の足で逃げたみてェだな」
俺たちは山肌につながる道を見上げた。道といっても岩と小石だらけの灰色の斜面に、踏み固められ下草の途絶えた筋が、うねりながら一本向こうへと消えているというだけで、あまり人の手の入った場所には見えない。おそらくその“骸商人”とやらは、俺たちの追跡に気がついて足を変えたのだろう。臆病者ほど追跡には敏感なものだ。
「さァて、じゃ、名探偵バルゲロイの大捕物帳といくかね」
「ねえ、飛行艇ハイジャック犯のほうはいいの? どうして誰も言い出さないの?」
「だァいじょーぶだいじょーぶ」バルゲロイはからからと笑った。「すぐ終わるって。それに、どうせ急ぎじゃないンだろ? オレたちが多少遅れても、問題なんてありゃしねーよ。イザとなったらホラ、『罰ゲーム用』空輸ヘリに来て貰えばいいンだし」
「そううまくいくといいがな」
俺は坂道の向こうを睨みながら言った。薄暗い紫の空に、巨人の拳のような褐色の岩が転がっている。道はその向こうへと消えている。
「この先に何があるか、知ってるか?」
「ん? 何だよ?」
「見ろ。哨戒灯の明かりだ」
俺が指差した先、重い曇天の上を、時折黄色い光の筋が撫でていく。まるで形を持たない平面生物が、薄気味悪いぼんやりとした光となって雲間を這っているかのようだった。何度見ても好きになれはしない。
「さっき本部に照会した。奴が逃げ込んだのは――“
埖山
”だ」
まるで世界中の“不要なもの”が、その不要さを競って一堂に会しているかのようだった。
材木、鉄筋、鉄パイプ。動かなくなったモビールの外装に、半ばから折れた家屋の支柱。外洋船舶は陸に打ち上げられ無惨な骨組みをさらし、ちぐはぐに積み上げられた金属板が切り立った山脈を為している。捨てられ見放され、誰からも顧みられなくなった“物体”たちの街。そしてそれは、その傘下で暮らす人間たちにも等しく言えることだった。
もとは軍事施設だったこの土地も、先の大戦終結と共に野ざらしのまま放置されていた。そこにいつしか浮浪者たちが住み着き、行き場を無くした若者たちが集まり、身を隠すため脛に傷持つ者たちがふらりと迷い込んだ。そうしてできあがった“不要品の街”には、法も税もなく、秩序もない。真っ白い高層ビルや、整然と並ぶ誘蛾灯や、路上をきびきびと歩くスーツ姿の往来といった類も存在しない、こことは最も縁遠い類のものだ。代わりにあるのはどろどろとした混沌、手当たり次第に食材をぶち込んで乱暴にかき混ぜたガラクタたちと汚泥のスープか、狂気の芸術家がキャンバスに手当たり次第の絵の具をぶちまけたような、渾然とした極彩色の宇宙。
秩序も経済もない最下層地域だが、犯罪者たちには人気があった。街はガラクタの山でほとんど迷宮だし、地元民は十中八九捜査だの尋ね人だのといった類には非協力的なのだから。
「あんまり一人では来たくはない所ね」
イーヴァの評があまりに的確だったので、俺は顔をしかめた。
どこもかしこも、捨て鉢な気配に満ちている。路地裏の暗闇、トタン葺きの屋根が風にペカペカ揺れる気配、目が合うとサッと逃げていく黒猫たち。酒瓶を片手に路上にうずくまる男たちは、俺たちが通りかかると皆警戒するような、侮蔑するような視線を投げてよこした。建物はみな曇天をスパリと切り取るような黒いシルエット。街灯はなく、どこも薄暗い。
だが、バルゲロイはそんなことは一切目に入っていないようだった。堂々とあたりを
睥睨
するように、肩で風を切って歩いている。
「おい、おやっさん。このへんを赭髪の男が逃げてこなかったか。うん、ああそうだよ。何? 知らん? あそう。じゃいいわ。さいなら」
「なァ、赤い髪で目の上に傷のあるオヤジ見なかったか? エッジイヤー人の。うん? って、なンでオレが客に見えンだよ。いや違う、違うっつーの」
「おい、このへんに逃げた男を捜し――おい、聞けや! 逃げンな!」
「このあたりでエッジイヤーの――ってお前さっきのおやっさんじゃねェか。用がねェんなら来るな。家帰って寝てろ」
片っ端から声をかけてまわっている。なぜか俺は、意味もなく感心してしまった。
「キリがないだろ、バルゲロイ。ここの連中はほとんどが犯罪者か犯罪者予備軍なんだ。いくら指名手配犯でも聞けば答えてくれるような連中じゃない」
「分かッてるよ」バルゲロイは快活に笑った。「魚心あれば水心。こういう場合のやり方は決まっててね、心当たりがあるンだ。ま、見ててくれよ――おっと、早速来やがったぜ」
得意気なバルゲロイの視線を追って見上げると、廃棄されたモビールの外装でできた鉄製の丘の上から、人影が現れるところだった。逆光で表情までは見えないが、なんとなく剣呑な気配がするような。
「――おっさん、どこのヒト? 誰に許可もらって、このヤマでデカい顔してくれちゃってんの?」
その威圧するような胴間声は、距離があってもよく響いた。
「出た出た」
バルゲロイが小声で笑う。
「――なあ、おっさんたち。ここはクォゴンさんの縄張りだよ。どこの誰とも分かんない奴があんまり目立った真似してくれちゃうと、正直言って目障りなの。こんなゴミ山でもルールはあるんだぜ。俺らだって二言目に拳なんて言いたくないけど、ここで人捜しするってぇんなら、通すとこ通してもらわないと」
それだけ一気に喋ると、男は金属屑を踏みしだいてこちらに近づいてきた。
その姿に、俺は驚愕とはいかないまでも驚いていた。まだ若い。
襤褸
同然の身なりに
蓮
っ
葉
な口の利き方を除けば、少年といっても通るだろう。
「ここの頭はクォゴンってェのか」
バルゲロイは周囲を睥睨しながら、もっと蓮っ葉な口調で訊ねた。
「そうだよ。E地区をまとめてる、俺たちのボスなんだ。怒らせると怖いよ」
少年が目線で合図すると、俺たちの横の暗闇から似たような風体の男が、音もなく現れた。さらに右からも、背後の影からも。次から次へと、ぞろぞろ這い出てくる。
スラムの
破落戸
といった所だろうが、人数は少なく見積もっても20人はいる。しかも各々がナイフや
鉈
、果ては火薬銃などといった剣呑な得物をぶら下げている。場所が場所だけに、その光景はかなり凄みがあった。
「こいつがここの掟ってワケか」
「そう。とりあえず一見さんは、教訓もかねて少し痛い目にあってもらうことになってるんだ。ニイさんたちはちょっと偉そうだから、腕の一本や二本は覚悟してね」
「は! こいつは面白い。不要品の山の不要品どもが俺に意見するなんざ一億光年早ェんだ」バルゲロイはいかにも悪役っぽい、歪んだ笑顔で叫んだ。「どいつもこいつも、不細工な二級品のツラしやがって。貴様らなんざくたばってるか、泣きわめいてるか、驚いて泡吹いて小便漏らしてるかがお似合いなんだ。その汚ェツラに俺の足跡で署名して、少しは見られる顔にしてやっから、まとめてかかってこいや!」
「あのうバルゲロイさん、指名手配の悪人を追うというストーリーはどうなったんでしょう?」
見れば金属屑の山に立つ青年は、これ以上ない憤怒に言葉も出ないほど顔を歪めている。当然だろう。周囲の殺気が明らかに倍加していた。
俺の言葉に、バルゲロイはにやっと笑うだけだった。
「こいつら締め上げりゃ、誰かは知ってるだろ」
「なんで交渉とかできないんだよッ!」
「いいのいいの、手間が省けりゃ。ほらよそ見するなティガ、来るぞ!」
振り向くと、背中の街灯を遮って、手斧を持った男のシルエットが飛びかかってきた!
俺は咄嗟に躱して地面に転がり、反撃の一撃を……と思ったが。
やめた。
なんだか急激にすべてがどうでもよくなってしまったのだ。
考えてみれば、俺が今ここにいる理由も、分かるようでいてよく分からない。緊急ではないとはいえ任務の途中なんだし、そりゃあ極悪人を放ってはおけないが、だからといって俺たちまで巻き込まれる理由はないわけだし――
「ティガ!」
「死ねやァ!」
上空から振り下ろされる錆の浮いた手斧の刃を、俺は指で挟んで止めた。
「――な?」
突然武器が停止した男は、落下の勢いのまま間抜けに地面を転がるしかなかった。
そもそもこういう追跡行には隠密さが要求されるわけで、派手に一発かませば何か出るだろというバルゲロイの場当たり的攻略法ではうまくいくモノもうまくいかなくなるに違いない。まあ、ここはそうでもしないと足取りもロクに掴めない混沌とした場所であることもまた確かなのだろうけれど――
「きッ、貴様ァ!」
立ち上がった男が拳で殴りかかってくる。俺は避けもせず、ただその一撃が衝撃と共に額で停止するに任せた。
「いッ――」
男はしばらく何が起こったか分からないように俺のほうを見ていたが、やがて拳の痛みに気づいて飛び上がった。
「痛ええぇぇ!? 何でできてやがるんだ、こいつの頭蓋骨はッ!」
面倒くさいことこの上ない。
「どけ! 俺がやるっ」
次の破落戸は握ったナイフを腰の横に当て、姿勢を低くして突進してくる。俺は横目でそれを見て、無意味にため息をつく。
ロクに手入れもされていないであろう男の
軍用
ナイフは、俺の二の腕の表面を乾いた音を立てながら滑って――半回転し、後方のガラクタの山に突っ込んだ。派手な金属音が、曇天に響いた。
俺の皮膚には傷一つない。
「痛てててっ、何しやがった今! 何の、何の魔法だッ!」
やれやれ。
横目で見ると、バルゲロイも似たような状況だった。バルゲロイが殴りかかってくる男を踏み台に飛び上がり、横薙ぎに振り回された鉄パイプの上でステップをとる。それからひょいと男の一人を押してやると、音高く背後のバラック小屋に突っ込んで倒れた。
その身軽さに、
破落戸
どもはさすがに何かおかしいと気づいたのか、武器を構えたまま包囲の輪を広げた。腰が引けている。
「なあ、バルゲロイ」俺はふと思ったことを口にしてみた。「お前さ、――遊んでるだろ?」
「なんで?」
「いやあああああっ!」
突然の悲鳴に俺たちが振り返ると、イーヴァが背後から羽交い締めに拘束され、もがいていた。
喉元には鋭い短剣。
「おら、う、動くなよニーチャン」イーヴァの背後の男が、語尾を震わせながらも片手で短剣を握り、イーヴァを人質にしていた。
「たっ、助けてティガ! バルゲロイ!」
「イーヴァ……」
俺は一歩足を踏み出しかけたが、「動くな!」と金切り声で怒鳴る男の必死な叫びに、思わず従ってしまった。
「なんの手品か知らんが、えらく舐めた真似をしてくれるじゃねえか? こ、これ以上クォゴンさんの縄張りで勝手なことすッと、た、ただじゃすまねえぞ!」
「おいイーヴァ」
「動くなッつってんだろ!」男は短剣の切っ先をイーヴァの喉元にさらに近づけ、一歩退いた。
「あのな、悪いことは言わないから、そ」
「黙れッ!」唾を飛ばしながら男は怒鳴った。目が血走っている。「両手を頭の後ろに乗せろ! は、早くしねえと、ねえちゃんのかわいい顔に傷がつくッてんだよ!」
「――あら、かわいいだなんて嬉しいわ」
イーヴァはそう言うと、喉元の短剣をひょいとつまんでみせた。まるで糸屑をつまむように、なにげなく。
「は?」
男が慌てて柄を握る掌に力を込めるが、それでも短剣は動かない。ぴくりとも。イーヴァのつまんだ刀身で、万力で固定されたように静止してしまっている。
「たまにはか弱い役もいいものね。ね、そう思わない? 弱くて悲しげで、保護本能をそそる可憐な美少女。今度からそのキャラでいこうかしら」
「姐さん、美少女はちょっと、その、無理が」
バルゲロイの
揶揄
に、イーヴァは一瞬鋭い視線を浴びせたが、すぐに視線を逸らしため息をついた。
「おい、き、貴様、動くなッ、こ、このっ、あれ?」
「ティガもバルゲロイもひどいわ。わたしが殺されそうになっても、ちっとも助けようとしてくれないんだもの」
「イーヴァ……」
そりゃそうだろ、という言葉を、俺は喉元で飲み込んだ。
「もう、つまんないの」
言いながらイーヴァは背後の男の足を払い、同時に右手を掴んで引き寄せる。相手の内股に自分の長い足を割り込ませ、目を白黒させる男の腕を、背負うように前方に叩きつける!
空中で鮮やかな円弧を描いた哀れな男は、高低差による落下エネルギーと回転モーメントで衝撃と共にコンクリの地面に受け身もとれず叩きつけられ、ぐうの音もなく昏倒した。
最近イーヴァの正確がラミー化してきてるな、と指摘しようとして、それに気づかない方が世界のためだと思ってやめた。
「な、なんなんだお前ら、何者なんだよ!」
男たちの一人が、こわばった顔で叫ぶ。足がじりじり後退していく。
と、何の前触れもなく、バルゲロイが跳躍した。数メートルの距離を一瞬で無にし、最初の男のすぐ目の前に着地する。誰かが押し殺した悲鳴を上げ、何人かが尻餅をついた。
バルゲロイは後光が見えそうなほどにっこり満面の笑みを浮かべると、言った。
「聞きたいことあるンだけど」
どう見ても誰かが踏み抜いた穴としか思えない入り口を潜り、薄暗く狭いくせにこれでもかというほど人間密度の高い
隧道
を肩を斜に構えて抜け、日に灼けたボロボロの天蓋布が空を覆う商店街跡地を通り抜ける。
その間じゅう、クォゴンとかいうモスグリーンの強毛の壮年はやたらお喋りで、しきりにお
追従
を述べていた。
「それにしてもライトさん、頼み事なら直接私の事務所に来てもらえれば。何もウチの若いモンを虐めなくても。あ、それも教育という奴ですかね? ええ、そりゃまあ確かにウチの連中は少々手の早いところがありましてね、一度くらいは痛い目を見とくのも社会勉強のうちといやあそうなんですが、まあそれにしたってライトさんみたいな手強いのにぶつかる経験はそうそうは――おっと、失礼」
「この世界じゃ愛想のいい奴は嫌われるぜ」バルゲロイはいい加減むっつりした顔で答えた。
ライトさんというのがこの世界でのバルゲロイの通り名らしい。つくづくこいつは現場警官向きだ、と俺は思った。
「ライトさんとは仲良くしとかないと後で恐ろしく後悔するってのがこの世界の通説なんで。ダリウスのモグリどもから聞いてますよ、旦那の活躍ぶりは。曰く“
血まみれの審判者
”、“
牙と爪の十字架ファング・クロウ・クロス
”、“赤髪の捕食者”他多数。しかしまさか、こんな辺境にまで出張ってこられるとは思いませんでしたがね」
なんでそんな前世紀の怪物みたいな通り名ばっかりなんだ。
「嫌々やっただけだ。オレぁむしろ気が重い」
そりゃそうだろう。俺たちのような隠密専門の特殊部隊にとって、顔が知られることは即致命的な欠陥となりうる。こんな吹きだまりの親分にまで名が知れ渡るほどになると、もはや有名人としか言いようがないレベルだ。
推薦状には不自由しなさそうだが。
「リゼンタキの隠れ家ってのはこっちでいいのか?」
俺が発言すると、急に表情を変えたクォゴンは不審そうな目で俺を睨み、「ああ、そうだが」と言った。分かっていても扱いの違いが少し寂しい。
「1週間ほど前から、廃ビルの地下倉庫を使わせてくれとかいう新参の連中がいた。運び屋と
逃がし屋
つきで、な。奴ら相当ヤバいモンを扱ってるらしい。ここはそういう連中にも居心地のいい街だ。それがあんたらの探してるリゼンタキかどうかは知らんが、まあ可能性はあるな。大いにある」
「ふうん」
会話しながら歩いていくと、鉄塔が傾ぎ崩れて道路を半ばまで塞ぎ、即席の関所のようになっている場所にたどり着いた。小銃をぶら下げた男たちが二人、両側に陣取っている。微動だにしない。
男たちは俺たちを見るとサッと気色ばんだが、ご苦労だなと言って手を挙げるクォゴンを認めるとたちまち警戒を解き、静かに一礼してもとの場所に戻った。近づくと動く古代の守護像のようだ。
ここには秩序となるべき警察組織も軍も存在せず、だから自分たちのみの安全は自分で守らなければならないのだろう。そのために生まれた武力が、多少剣呑な性質を帯びていようとも。人間はイザとなればどこででも生きていける、という好例を目の当たりにし、俺は少し感心した。自警どもも本来はこうあるべきなのかもしれない。
「で、リゼンタキはここで何を?」バルゲロイが前を向いたまま訊ねた。
「詳しいことは分かりませんな。だが、低重心
運搬車
が数度、ここの大通りを往復していたらしい話は耳にする。それから、
師父
の
四阿
に何度か出入りしていたと――」
「
師父
?」
「おおっと、悪いがいくらライトさんでも、これ以上言うワケにはいきませんな。あの方は特別だ。下手をすればこちらの首が危うい。まあ、本人を捕まえて締め上げてみることです――ん」
先頭のバルゲロイが足を止める。その視線の先には、路上にふらふらとさまよい出る男の姿があった。
「ジェイカーじゃないか。どうした?」
クォゴンが言った。その声は不審と疑問に満ちている。
「クォゴン、さん」ジェイカーと呼ばれた男は焦点の定まらない目をしていた。声もどこか生気がなく、足取りも覚束ない。
クォゴンは横目で、
件
の運び屋です――と俺たちに告げた。
「あ、あ」
「どうした? 何かあったのか?」
「お、おれたちは、まんまとハメら、れ――や、奴は、き、危険、アレで、飛行艇を」
「おい、どういうことだ?」
クォゴンが大股で歩み寄る。
刹那、暗闇の向こう、幾千の闇を覗かせる廃ビルの窓の奥で、何かがチカリと光ったのを、俺の目が捕らえた。
背筋に凍った血が逆流した。
「伏せろッ!」
俺が叫ぶと同時に、ゴム糸をナイフで断ったような鈍い音がした。
続いて、鮮やかな血飛沫。
俺の光神経が反応、身を投げ出して物陰に隠れるのと、ジェイカーと呼ばれた男の額が割れ鮮血と脳漿と頭蓋骨の破片を撒き散らかしながら絶叫するのとがほぼ同時だった。
「長距離スナイピングだ! 物陰に隠れろ!」
イーヴァは鮮やかに後方飛翔して鉄柱の後ろに隠れる。バルゲロイはクォゴンの頭を掴み横の廃屋に叩き込み、自身も隠れた。
俺は腰の
自動小銃
を抜きながら、眼球の視覚組織を活性化。眼球内にある予備の
桿状体細胞かんじょうたいさいぼう
と反射板が作動すると同時に球表面レンズの分解能を限界まで引き上げられ、狙撃地点を裸眼望遠する。
そこには地面固定型の超長身レールガンと、狙撃システム用の衛星リンクシステムを搭載した通信器具一式、それに望遠スコープを覗き込む、臙脂の短髪がいた。
――リゼンタキ!
薄闇から覗くその幽鬼のような顔は、手配書に描かれている男のものに間違いない。
そしてその指は、
引き金
から離れていなかった。
「まだ来るぞ!」
叫ぶと同時に近くの地面に着弾。鈍い音と共にアスファルトが破砕され、黒い破片と粉塵が舞う。射撃音より着弾が早いということは、軍用の超音速スナイプガンということだ。
さすがは“武器商人”。
――感心してる場合じゃない。
俺は背後のコンクリート壁から腕だけを出し、照準も合わせずにほとんど勘で引き金を引く。3発、4発。遠方で着弾音が響き、
硝子
やコンクリートが破砕される音が遠くに反響する。
「ヤロー逃げるつもりだぜ! 追うぞティガ!」
バルゲロイが叫ぶ。
俺はコンクリート壁の後ろから飛び出し、顎から上を失った哀れなジェイカーの屍を飛び越える。バルゲロイとイーヴァがそれに追走するのを、気配だけで確認する。
緊急発動した信号により、マクロファージに擬態した血流ナノマシンが全身の臓器を活性化していく感触は、体中が怒りに沸騰していく感覚に似ていた。
全身が灼熱する。
(狙撃地点からの距離は800メートルだ。奴も
ココ
の地理に詳しくないから、90秒もあれば追いつける)
(了解。オレは西から回る)
(わたしが囮の役をすることになりそうね。無人射撃装置が配置されてるかもしれないから、警戒を怠らないで)
(分かってるッて)
「お、おいっ」
背後でクォゴンが情けない声を上げる。
「道案内ありがとよ! すぐ終わッから、
楽隊
でも用意して待ってな!」
闇を疾駆する俺たちが、一陣の
颶風
となって駆け抜けていく!
ビルの壁面に横向きに着地。五指が鉄筋を穿孔し、全身を固定する。
長靴
の特殊合金スパイクを跳ね上げ、壁に突き刺す。十分な耐久性があることを確認し、俺は手を離す。
重力が体躯を捕らえるより早く、壁面を横向きに蹴って跳躍。さらに踏み出した足裏がコンクリート壁に食らいつき、もう一歩を踏み出させる。そうして俺は、重力を無視したかのような横向きの疾走を開始。
倍加した視力で敵の影を探す。崩れ黒土を
曝
した爆破実験場、今にも崩れ落ちそうな店舗が並んだ
闇市場、外装とタイヤの盗まれた廃車が陳列する廃棄場。その先に――
――いた。
ビルとビルの隙間、灯の当たらない裏路地を駆けていく影がある。小脇には小型のスーツケースを抱えている。足下でぬかるんだ水溜まりが弾け、褐色の飛沫を上げている。

逃がすか!
俺は壁面を蹴って跳躍。傾いだ電柱を踏み台にして二段跳躍し、向かいの摩天楼の壁に足を突き立てて着地。さらに落下しながら鉄筋壁を蹴りつけて横向きに疾走。距離を縮めていく。
赭髪の男がこちらに気づき、恐慌に近い表情を浮かべる。
両足が千切れそうな勢いで走るリゼンタキが、突然移動方向を直角に変化させて近くのドアに転がり込んだ。
俺は軽く舌打ちをしつつ、闇濃き路地裏に着地。リゼンタキの逃げ込んだドアの前まで走ると、ドアノブに向けて小銃を5発斉射。施錠機構を破壊し、鉄板の扉を蹴破る。
照準の先にある暗黒の建物内は、鉄板の圧延作業所のようだった。
もう何十年も前にその役割を終えた金属アームが静かに埃を被っている。完成品を運び出すベルトコンベアも、錆と油で黒ずんでいる。天井は見上げるほど高く、半球形の常夜灯は
悉
く割れ砕けて内部のフィラメントを曝していた。
俺は銃の照準を合わせながら、周囲を油断無く睥睨する。
何かの動く気配はない。
――どこに消えた。
俺は銃を構えたまま横向きに2,3度軽く跳躍して、死角にポイントを合わせる。と、傍らに比較的新しい
鉄匣
が積み重ねられているのを発見した。埃の積もり具合もほとんどない。違和感を感じ、俺は視線を周囲から外さないまま爪先で蓋を蹴り上げる。
半ば予想していたとはいえ、俺は苦鳴を押し殺した。
匣の内部に納められていたのは、黒い輝きを放つ無数の武器。それも通電銃や超振動ブレードなど、近距離でのみ威力を発揮するものばかりだった。なかにはおとぎ話で空飛ぶドラゴンと一緒に出てくるような、幅広の大剣も幾振りか納められていた。十中八九、リゼンタキの本業である密輸武器。だが、見上げるほどに積み上げられたこれらを全て合わせると、一体何人分の武器になる?
それにしても、弾丸を消費するような遠距離銃器の類がいっさい見られないことが気にかかる。
(ティガ、奴は地下通路に逃げたぜ。これから追う。ちゃんとついてこいよ!)
バルゲロイの通信に、俺は現実へと引き戻される。
(周囲の建物を捜索したけど、無人狙撃銃の類は見つからなかったわ。奴の残した狙撃システムの回収はどうする?)
(いい、後回しにしよう。意地の汚い廃品利用業者どもが片づけてくれるだろうし)
俺は通信でそう告げると、銃を構え直し走り出す前にちらりと視線を鉄匣のほうにやった。しばらく逡巡した後、二の腕ほどの長さを持つ
珪素刀
を拾い上げ、腰に差す。何かの役に立つかもしれない。
視界と重なって、バルゲロイの現在位置マッピングが青白い三次元映像となって映し出される。
(こっちか)
その移動経路から、俺はアタリをつけて近くの壁まで走り、続けざまに銃弾を放った。甲高い音と共に鉄板が歪み、弾痕を残す。いくらか螺子の飛んだ壁に回し蹴りを放つと、重低音と共に奥に向けて壁が倒壊し、薄暗い通路を覗かせた。数十年分の埃がもうもうと立ち込める。
俺は暗闇に銃口を向け、安全を確認するとその中に飛び込んだ。
距離は確実に縮まっている。奴がどこに逃げようとしているのかは分からないが、これならすぐに追いつけるだろう。
俺は薄暗い隠し通路を駆け抜けた。
出口は、そして
邂逅
は、思ったよりもずっと早く訪れた。
地下通路から通じる階段を上り、地上へと抜ける。暗闇に慣れた瞳に、曇天の薄明かりでも
眩
しかった。
「さあ、年貢の納め時だぜ、“骸商人”さんよ」
声のするほうに目をやると、照準を正確に合わせたバルゲロイと、壁際に追いつめられ顔を恐怖に歪めたリゼンタキの姿があった。
「やー、小物のクセに面倒かけさせやがッて。衛星リンク狙撃システムなんてどこで手に入れやがったんだ?」
「く、くそっ」
「ま、いいや。そのへんも喋ってもらうぜ。……今回の密輸ルートについても、洗いざらいな」
「し、
師父
ッ」リゼンタキはうわずった声で叫んだ。「師父ッ、お助けください!」
「師父だァ?」バルゲロイが眉を段違いにする。「何のこと――おっと、動くな」
「き、貴様らごとき、あのお方にかかれば、赤子も同然よ。いずれ訪れる“約束の時”をこの世界に顕現させるべく、あのお方は」
「なるほど、そいつは詳しく聞きたいね。洗いざらい吐いてもらおうか。暗い部屋で、ゆっくりとな」
銃口を向けたまま、バルゲロイが一歩踏み出す。
「く、くそッ……師父! ああ、師父! お助けください!」
刹那。
空気が凍った。
全身の血液が凍るような殺気。
視界が暗転し、地面に陰影が差す――そして。
「バルゲロイッ!」俺は叫んでいた。「上だ!」
「なン」
バルゲロイが言い切るより早く、上空から明かりを遮って飛来する紫の影。視認できないほどの超高速落下が、紫苑の
瀑布
となってバルゲロイの眼前に着地。関節の裁断される、低くこもった音が響く。
「――!!」
声さえ上げられなかった。
バルゲロイの、肘から先が――
消滅していた。
「ぬァッ……!?」
悲鳴を上げて隙を見せる愚を避け、バルゲロイは必死に声を殺し後退する。その顔には恐怖と苦痛がべったりと張り付いている。
「バルゲロイ!」
俺は視線を水平移動させ、バルゲロイの腕を奪った物体に目をやる。
それは人影だった。
紫の影は着地していた。それは黄昏の西空よりもなお濃き紫苑の外套。そして、それにつながる長躯。腕に握られた子供の背丈ほどもある片刃刀が、赤黒い液体に濡れている。あれでバルゲロイの腕を両断したのだ。
俺たちの特殊イゼリウム合金骨格を、一撃で両断する剣、だと……?
「ああ、師父! 来てくださったのですね!」
リゼンタキが転がるように人影に走り寄る。
「――荷はどうした?」
紫の人影が発した言葉だと気づくのに、しばらくかかった。
いや、違う。この声は――
「無論、所定の場所に運ばせてあります! これで師父の念願である、あの計画がつい」
「そうか」
武器商人の言葉尻を待たず、長躯の右腕が残像を残して
翻
った。
何の前触れもなく繰り出された長剣による水平の一撃が、悪名高い武器商人の顎から上を粉砕。喋りかけ口を開いた格好のまま、顔面の上半分が消失。黒血と脳漿、黄色く濁った脳組織とそれにつながる眼球を右側面の壁に叩きつけながら、リゼンタキの顔が消滅した。
あまりの光景に、俺たちはただ見ていることしかできなかった。
骸商人の残った下顎が無意味な言葉を発し、残された赤舌が何度か跳ねる。引きちぎられた神経と骨組織の断面から
間歇泉
のような鮮血を吹き上げ、2、3歩慣性のままに歩いてから、リゼンタキであったものは痙攣し膝から崩れ、自らの作り出した血溜まりに湿った音と共に没し絶命した。
後には
饐
えるような鉄錆の匂いと、完全な静寂だけが残された。
(イーヴァ、イーヴァ、ここには来るなッ)
必死に通信立ち上げ、遠方にいるであろうイーヴァに呼びかける。
(本部と、近隣の常駐軍に応援を要請してくれ! 一刻も早く!)
危険だ。
ここは危険すぎる。
「ティガとバルゲロイか。――運が悪かったな」
「どうして、アンタがここにいるんだ」
ここは危険すぎる。
数の上ではこちらが有利だが、明らかに俺たちは追いつめられている。それも、圧倒的に。
「偶然、には違いないがな。なにか因縁めいたものすら感じるよ。特にティガ――君にはな」
「何の、つもりだ?」
男ははじめてこちらに視線を向けた。それで初めて、俺はその男の顔を確認することが出来た。
刈りそろえられた黒髪。
引き締まって端正な浅黒い肌に、切れ長の瞳。
左目から下顎までを隠すミゼル銀のマスク。紅い複眼。
獲物を狩る黒豹のような、その気配。
「アンタは張り込みで忙しいって聞いた。それに、『
師父
』ってのは、どういうことだ?」
「おそらく、君が想像している通りだろう」
「なンで、テメェが、ここにッ」腕を押さえたバルゲロイが、絶叫に近い声を上げる。「俺たちを、部隊を、裏切るつもりか――ハルオン!」
そう。
コレリコア=シャディ=ハルオン。
生体改変兵
構成員9名の一人にして、模擬戦闘ランキング総合2位の剣舞士。
特に近接戦闘に於いては右に出るものもなく、あらゆる非消費武器による戦闘を習熟する、通称“
剣聖
”。
その男が、なぜ。
「裏切りではない」ハルオンはその鋭い目をかすかに曇らせた。「理解したのだ。このままではあらゆるものが闇に食い尽くされる。止めるには、すべてを終わらせるしかない。電源を落とすように、世界をリセットするしか」
「何ワケ分かんねェこと言ってやがるンだ」依然腕から出血の止まらないバルゲロイが叫ぶ。「招集に従わなかったのもそのせいかよ。裏で何か汚ェ事考えてやがったんだろ! ――まさか」
バルゲロイの顔から表情が消える。
「カフさんを、殺したのも、――てめェ」
「そう思うのも無理はないがな」ハルオンは視線を落とし首を横に振った。「違う。あれは――自殺だ」
「嘘吐くンじゃねェ!」
「バルゲロイ」俺はやりとりを遮って、静かに言った。「何らかの理由で、ハルオンは隊伍の統制を離脱した。特殊部隊規制法案第15項に基づき、隊の機材を、ハルオンを回収しなければならない。隊長不在のため、伍長である俺が指揮を執る。
想定は教則112、ケース4。市街地における少数白兵戦闘、その後退型だ」
俺は自動小銃を構え、ハルオンに照準をつける。
「イーヴァが応援を呼ぶまで、時間を稼ぐ。行くぞ!」
俺とバルゲロイが、同時に飛び出した。
長刀を下段に構えたハルオンの、向かって右から俺が、そして左からバルゲロイが走る。
そして非業の仲間割れは開始した。
まずバルゲロイが接敵、残った右腕で跳ね上がる拳を放った。首を捻ってハルオンがそれを回避、下段から駆け上る剣筋でバルゲロイの胴を両断――と思ったが直前で軌道変化、自らの眼前に、腹を見せて水平に構える。
その白銀の刀身に、俺の銃弾が着弾し澄んだ音を立てて弾かれた。
俺の足下で空薬莢が跳ねる。
この小銃程度では、俺たち生体改変兵の防弾繊維を遠距離から貫くことは不可能。加えて神速の反射神経があるため、銃弾といえどほぼゼロ距離からの射撃しかダメージを与えられない。
それを見越しての接近射撃だったが、頭部を狙うという基本射撃のために軽く防御されてしまった。
だが、それも予想範囲内。むしろ剣を防御に使わせることが、俺の目的だった。
バルゲロイの天を向いた右拳が空中で停止、逆行して鎖骨を砕く
肘落とし
に変化。ハルオンは左手でそれを掴み、肩の粉砕を防ぐ。
俺は防御が手薄になった脚部へ向けて弾丸を放つ――と見せてその動きを急停止。自動小銃を放り投げ、バルゲロイへと渡す。バルゲロイは前方を睨んだまま右手でそれを掴む。
右腕で俺の攻撃を、左手でバルゲロイの肘をガードさせ、行動不能になったところを俺の
珪素刀
とバルゲロイの小銃で潰す。言葉も交わさない無言のうちの連携
動作
だ。いくらハルオンといえど、これには後退するしかあるまい。
俺は腰の珪素刀を抜き、腰を落とし刃を低く構えて突進する。だが、ハルオンの反応は俺たちの想像を遙かに
凌駕
していた。
左手で掴んでいたバルゲロイの肘をあえて引き、超接近と同時に繰り出した頭突きがバルゲロイの顎を砕く。さらに蛇のように右手の刃がしなって俺の顔面を急襲。俺は即座に重心を後方に移動、必死にのけぞって躱すも、体勢が崩れた所に翻った斬撃が打ち下ろされる。どうにか珪素刀を横に構えそれを受けるが、片手だけの膂力で無理矢理刃が押し込まれ、俺の背骨が軋みをあげる。突き立った両足の下、アスファルトに放射状の亀裂が走る。
俺は仰向けに倒れながらも右足を跳ね上げ、上昇する死神の鎌と化した爪先でハルオンの膝関節を破壊しようとする。だがハルオンは長剣を手放してそれを回避、爪先は虚しく宙を掻く。そして足が跳ね上がりきって停止する瞬間をを狙って、ハルオンの五指が踵を掴む。
「隙が大きい」
金属置換され優に100キロは超えるであろう俺の体を、右手の力だけで持ち上げ放り投げる。俺は回避もできず縦方向に回転し、近くの壁に叩きつけられた。
その間に肘の
縛
めを振りほどいたバルゲロイが銃口を定め、闇雲に小銃を全弾斉射した。だが落雷の速度で跳ね落ちた肘と跳ね上がる膝で銃を持つ左手を挟まれ照準を外される。さらにその死の
顎
に複雑な捻りを加えられ、バルゲロイの右手機構が粉々に破砕される。
「がアッ」
「まだまだだな。出直してこい」
落下してくる長剣を右手で掴み、紫の剣鬼はそれを無造作に一振りする。反射的に地面を蹴って後方飛翔したバルゲロイの両腿に吸い付くように剣先が流れ走り、その防刃繊維と金属大腿骨ごと抵抗など無いように断ち切られていく!
腿の前半分を切断されたバルゲロイが、咆吼に近い絶叫をあげ背後の鉄屑の山に叩きつけられる。場違いなほど甲高い不協和音が、薄暗い
隘路
に反響した。
もし即座に後ろに跳躍していなければ、迸る刃に胴体を両断されていただろう。それでも、左手を肘から断たれ、右拳を破砕され、さらに両足を断ち切られたバルゲロイに、もはや接近戦闘能力は残っていない。
躊躇している暇はない。
ハルオンがバルゲロイから視線を外すより早く、俺は大地を蹴って跳躍、ハルオンの長躯に体当たりした!
すかさず右肘を上げてガードするハルオン。しかし俺の全身を使った勢いは減殺されず踵が宙に浮き、二人の体が宙を舞う。慣性のままに俺たちは水平飛行し、傍にあった建物の壁に直撃! それでも勢いは死なず、壁を突き破って屋内へと侵入する。
鉄の粉塵と積もった土埃が視界を隠す。
即座に横転して距離を取り、体勢を立て直す。見るとハルオンも、その長刀を構え直すところだった。
「野蛮ながらいい戦術思考だ、と言いたいところだが」ハルオンが余裕の口ぶりで言う。「今の一撃を受けたのはわざとだ。君と
一対一
で戦いたかった」
「そりゃ嬉しい。ついでにわざと負けて、俺を出世させてくれ」
ハルオンは侮蔑的な笑みを浮かべ、白磁の長剣を構える。俺もなんとか離さずに持っていた珪素刀を握り直す。
純粋な武器戦闘では、ハルオンの右に出るものは皆無。数でたたみ込めるならともかく、こんな広い場所での戦闘は圧倒的に俺に不利だ。それでも、時間を稼ぐため攻めるしかない。少しでも気持ちが負ければ、即座に殺される。
「おおおおおおおおああああああああああッッ!」
俺は叫びながら疾走し、横凪ぎの水平斬撃を放つ。超反応したハルオンの長刀がそれ自体別個の生命体のように跳ね上がり、斬撃を阻止。両の刃が噛み合い、青白い閃光を散らす。
俺は退かず刀に両手を添えてさらに押し込む。長剣の上を刃が滑り、耳障りな摩擦音をあげる。
俺とハルオンでは、機体性能にほとんど差はない。元となっている動作システム、金属骨格やナノチューブ繊維筋肉などはすべて同じ。だから、純粋な力比べでは決して引けを取らない。
俺は力任せに刃をさらに押し込む。刀身が長いぶんハルオンは力負けし、長剣が押し込まれていく。そのまま胸板に刃が接触し、防刃繊維を巻き込みながら皮膚に食い込んでいく。
直後、右脇に衝撃。
鍔迫
り
合
いの裏側から放たれたハルオンの膝蹴りだと気づくと同時に、折れた肋骨が肺に刺さる激痛が走る。苦鳴と共に吐き出された息に、熱い血が混じる。
刃の押し合い自体が、蹴りを通すための囮だったのだ。
俺は半回転し、腰を捻って上段蹴りを放つ。即座に後退して距離をとるハルオンを尻目に、俺は視界が白く染まるほどの激痛に呻いた。
「くっ」
「力に頼るな、力に溺れるな。敵の攻撃はどこから来るか分からず、だが予測はどこまでも可能だ」
片膝を突いて鎮痛作用の発露を待つ俺に、ハルオンが冷たく言葉を突きつける。
「相手の一手先を読め。それが読まれるようなら、そのさらに一手先を読め。相手の裏を、さらにその裏をかけ。与えられた機械の力だけに頼っている限り、お前に勝ち目はない」
「余裕ぶって、講釈、とはね。俺を、舐めすぎだ……!」
鎮痛作用が功を奏し、右脇腹を引き裂く痛みがわずかに遠のいた。だが相変わらず機肺の損傷は重大で、早く治療を受けなければ危険であることに変わりはない。
「隊の中で、ティガ、お前が最も可能性を秘めている。そして同時に、最もその可能性を無駄に食い潰している。今のままではティガ、お前は私にも、そしてその背後にある
モノ
さえも到底手が届かぬ」
「あんたの、背後? どういう、ことだ」
「お前が目を開いていれば、嫌が応にも見せつけられるモノだ。だが、今のままでは、何万回死んでも近づくことも
能
わぬだろうな」
「話す気はないってことか。いいよ、後はその体に聞いてやる!」
俺は立ち上がり、再び刀を構え直す。切っ先を眼前の長躯に据え、意志の力で強く睨む。
「痛み止めの時間稼ぎは終わりか? ならば、来い。本物の闘争を見せてやる」
そして激闘は再会した。
その間合いを活かしてハルオンが刺突を放つ。電撃よりも
疾
いその直線攻撃を、身を捻って回避。
限界まで剣が伸びきった瞬間を見切って、俺は肩を斜めに構えた青眼からの斬撃を放つ。ハルオンは反り返ってその刃と距離を取ろうとするが、俺は無視してさらに剣を押し込む。蛇のように長剣が戻ってきて、鍔元でそれを迎撃。両者の眼前で紫電が
奔
る。空気の焦げる刺激臭が漂う。
刃と刃の噛み合った箇所を支点にして、長刀が跳ねる。俺の手中の珪素刀が滑るように動き、その動きを強制停止させる。
互いに相手を喰らおうと金属の軋みをあげる刃と刃。
ハルオンが何の前触れもなく剣を引いた。咄嗟に第二撃を警戒し攻撃態勢の崩れた俺の顎に、跳ね上がったハルオンの膝が急襲する!
俺は回避が不可能だと即座に判断、逆に顔を押し出して、膝が伸びきるより前に、前髪の浮いた額でその
膝蹴り
を受ける!
額から鮮血がしぶく。だが幾重もの超硬合金と
緩衝材
で構成された頭蓋骨の強度は、厚みのない
膝蓋骨
とは比較にならない。単純な衝突なら、単純な硬度が優劣を決める。
ハルオンの膝が裂け、衝撃に骨金属の陥没する音が脳を揺さぶる。上昇してきた脚が逆に押さえつけられ、踵が床材を叩き割る。さらに押し込もうとする俺の頭突きに膝関節を破壊されるのを防ぐため、ハルオンは流れに逆らわず地面に背中を投げ出す。
一瞬の停滞の後、ハルオンは横向きに転がって退避。追い打ちに繰り出される俺の刃を剣で受け、牽制して距離を取る。
「野獣のような体術だが、なるほどなかなか侮れんな」
破砕した膝を庇うように立ち上がり、ハルオンが笑う。
「…………」
俺は言葉を返せない。
今の一瞬……なにか、違和感を感じなかったか?
「遊びは終わりだ」ハルオンは独白するように言った。「闘争の続きは天空の決戦地、いずれ遠からぬ飛行艇の上で。それまでに、己に足りないものを見つけておけ、ティガ」
紫の長外套を翻し、
踵
を返すハルオン。
「まッ、待て、逃げる気か!」
「オーギュスに伝えておけ。我々は本気だ。街を守りたいなら、全師団を空港警備に回すことだと」
言い終わると同時に、ハルオンは紫の影となって跳躍した。
数メートル飛び上がり、天井近くで長刀を構える。白い残像が迸り、天井が切り裂かれる。できた穴に手をかけ、全身を振り子にして天井を突き破り、ハルオンは薄闇の虚空に消えた。膝を負傷しているとはとても思えない俊敏さだ。
「ま、待てッ」
一拍遅れて俺も跳躍、高みにある天井の穴に手をかけて屋根へと登る。だが、そこに紫の外套の姿はどこにも見あたらなかった。
一度見失ってしまっては、この街でハルオンを見つけるのはまず不可能だろう。
――分からないことが、あまりに多すぎた。
仲間の死と、裏切り。
空港、飛行艇。そして《師父》。
ハルオンの謎の言動、そしてその理由。
あの時感じた、違和感の正体。俺の頭突きがハルオンを地面に縫いつけたとき、その気になれば奴は俺の頭部を両足で挟み込み、回転する勢いで俺の首を捩じ切ることができたはずだ。そうなっていれば、俺は悲鳴を上げる暇すらなく絶命していただろう。もとより、俺とハルオンの戦闘技術には天と地ほどの開きがあるのだ。
だが、奴はそれをしなかった。気づかなかったのか、それとも。
わざと手加減した
?
低く垂れ込めた曇天を哨戒灯が彩る。その下に鮮血のように広がった、仲間の死と、裏切り。その言葉は、この風景に、この世界に、ひどく似合いのものであるように思われた。